誕生と逝去

人格をもった存在が出生の時点で胎児の肉体に入る場合は、その存在と胎児の肉体の一体化が成されず、かなり肉体に非依存的である色合いが濃くなります。

一方人格をもった存在が、受胎と同時に、あるいは出生以前から胎児の肉体に入っていれば、出生時には胎児の肉体意識との間に、ある程度の一体感が生まれています。そうした胎児の肉体は、すでに知覚に注意が向いているので、誕生の衝撃をじかに、まともに体験します。

幼い子供が眠っているときは、その人格をもった存在はいとも簡単に、しかも頻繁に肉体から出ていきます。

成長してからも、特に人生の初期や末期に何らかの重大局面や危機を体験した場合、それが人格をもった存在と肉体との一体性を錯乱させ、そのため当人の意識が肉体を出てしまうことがあります。
その先どうするかの選択肢は豊富にあり、そのいずれかを選ぶことになります。
意識が肉体から完全に出てしまい、もし肉体意識のほうにも衝撃が及んでいる場合は、肉体がこん睡状態になることがあります。衝撃が心理的なもので、肉体意識はほとんど正常に機能していれば、過去生での人格に回帰してしまうこともあります。それらは単なる意識の回帰であり、たびたび起きることです。
もしその人格をもった存在が、人生がうまくいっていないと感じている男性であった場合、人生をうまく切り盛りする女性であった過去生での性格を帯びる可能性があります。またその逆もしかりです。

受胎の時点で肉体に入る人は、往々にして発育が良く、個性も極めて速いうちからはっきりと表れます。新しい肉体をよく把握し、早期にその性質を形作ります。彼らは物質の掌握にも積極的で、たいていは肉体に留まり、最後も瞬時に逝ける事故死や眠ったままの逝去、あるいは病死にしても一瞬のうちに死去する形を選ぶようです。
一方誕生の時点までその存在のレベルに入っていかない人は、物質の扱いにさほど長けてはいません。
また自ら選んだ新しい存在であるにもかかわらず、その在り方を可能な限り長く拒み続ける人もいます。
それでも誕生の瞬間には、ある程度その場にいなければならないのですが、その場に及んで新生児との完全な一体化を免れることも可能なのです。
己の性質が原因でありながら、自己と物質的存在との間に一定の距離を置きたがる人もいます。そうした人は、やたら象徴に関心を持っていたり、地上の生活を極めて経験主義的なものとみなして、いわば偏見に近い見解をもって地上での生活に取り組むことになります。

我々がいかに肉体を去るかを論ぜずしていつそこに入るかを論じることはできません。
なぜならこうした全ては、その人格の特質や物質的現実に対する態度と大きくかかわっているからです。
未来生についての決断は、中間生においてだけでなく、いずれかの転生において成される可能性もあります。
もしかしたら、次回の転生における自分の状況をすでに決定されているかもしれないのです。次回の両親は、あなたの見地からはまだほんの子供であるかもしれず、その時間的基準からすればまだ生まれてさえいないかもしれません。しかしそれでも、そうした取り決めを行うことはできるのです。

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